夢の中の侯爵夫人は岩のお城の中に居り、大きな暖炉の傍に座っていた。 その背後には重いカーテンが何重にもたれめぐらされた窓があった。
彼女は熟知していた。その部屋の高い天井、八方を覆う 灰色の冷たい石畳。所々無造作に投げ出された動物の生皮の敷物も。
彼女は辺りを見ようとはしなかった。それには暗すぎた。部屋の四隅は 彼女の視野の中霞んで見えた。まるでガーゼのベールが、彼女と、その独房の遠い限界を隔てているかのように。
侯爵夫人の手は唇に当てられ、うつろな瞳は湿った暗闇をぼんやりと見つめている。
寒かった。
はー、はー、と白い息を、かぼそい指に吹きかけた。が、指先まで血液が行き渡らない。この厳しい寒さのせいか。 内側から身体を蝕む病が、皮膚下の鈍い痛みのみ残していた。
膝の上の重みはなんだろう?侯爵夫人は、蜘蛛の巣のように顔を 覆う黄色の髪を払いのけながら、膝の上を見た。
そこには皮表紙の分厚い本が一冊。
見覚えのある表紙だ、しびれた指先で金箔をきせた縁をなぞりながら、思う。 誰のだろう?――その答えを彼女は知っている。
突然腹の底から吐き気がこみあげてきた。
開けるな、頭の中の声が警告した。が、夢は止どまらせてくれない。 彼女の白い手が、表紙をめくる。そして、かすかに震えながら、彼女は開いたページを凝視した。
Marquise de Lioncourt
気品高く紙に刻み付けられた装飾文字。わずかにインクがにじんでいるのが 見える。実際、美しく施されたものだった。
ふと、息を止めていたことに侯爵夫人は気づいた。肺の中のわずかな空気を無理矢理吐き出してみるが、胸の苦しさは増すばかりだった。
ああ、なんて寒いのっ、心の中で舌打ちする。無音の夢の中、もう一枚ページをめくった時だけ、カサッ、と乾いた音がした気がした。次のページに目を落とす。
Marquise de Lioncourt
はっと息をのみ、目をつむった。が、再びその目を開いたとき、同じ文字が はっきりと見えた。
――落ち着いて――。
しかし押さえきれない恐怖の波が 彼女の脳の奥に募る。いやだ。
ページをまためくった。 そしてまた。
Marquise de Lioncourt
Marquise de Lioncourt
いや、いや、いや...!!!
次から次へと、めくるページには同じ文字が何度も何度も刻まれていた。 その名前。誰の名前?知らない。知らない。
Marquise de Lioncourt
恐怖の波にのまれた。
彼女は叫んだ。音のない叫び、それは全てを潔白に塗り替える。 目がくらんで何も見えない。彼女は両手で耳を塞ぎ、立ち上がる。 叫びが止まらない。本は膝から滑り落ちた。
くるっと向きを変えた彼女は、次の瞬間カーテンを乱暴にかき分けた。
窓から流れ込む突然の光に、一瞬たじろぐ。が、ほんの一瞬のことだった。
彼女はぎゅっと両腕で身体を抱え込み、窓ガラスを突き破って 外の空間へ身を投げた。
前夜、雪が降ったばかりだった。見渡す限りの白い畑、白い山脈。 灰色の空に拡散し、雪景色に反射された日光が、 鋭く冷たい空気をいっぱいに満たしていた。
落ちるのを感じるかと思った。だが感じたのは、塔の窓から彼女が白い空間に舞い上がったその瞬間だけだった。
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